モーリス・ラヴェルってどんな人?



ラヴェル略年表

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西暦 年齢 できごと
1875年 0才 ジョセフ・モーリス・ラヴェル,サン=ジャン=ドゥ=リューズ近郊のシプールに生誕(3月7日)。父ピエール=ジョセフ,母マリー・ドルアール。一家は7月にパリへと引っ越し。
1878年 3才 弟エドゥアール誕生。
1882年 7才 アンリ・ギスに師事してピアノの勉強を始める。
1886年 11才 シャルル=ルネに和声法および対位法を師事。
1888年 13才 リカルド・ヴィーニエスに出会う。
1889年 14才 第3回パリ万博。ロシアと当方の音楽を聞く。パリ音楽院に進学(11月)。ピアノ予備クラスに入り,アンティオームにつく。
1890年 15才 ピアノ演奏で2等賞(7月)。
1891年 16才 一等賞を得る(7月)。ベリオのピアノ科,ペサールの和声法クラスへ入学。
1893年 18才 『グロテスクなセレナーデ』,『恋に死せる王女のためのバラード』
1895年 20才 パリ音楽院を出る(7月)。『暗く果てなき眠り』,『ハバネラ』,『古風なメヌエット』
1896年 21才 『聖女』,『スピネットを弾くアンヌ』
1897年 22才 『耳で聴く風景』(『ハバネラ』に『鐘の鳴る中で』を加えた組曲),『ヴァイオリン・ソナタ(遺作)』
1898年 23才 パリ音楽院へ戻る(1月)。フォーレの作曲法クラスへ入学。アンドレ・ジェダルジュに私的に師事。『耳で聴く風景』(3月),『古風なメヌエット』(4月)が初演される。『紡ぎ車の歌』,『何とうち沈んだ!』,『シェヘラザード(序曲)』
1899年 24才 『シェヘラザード(序曲)』(3月)初演。『亡き王女へのパヴァーヌ』,『私に雪を投げかけるアンヌ』
1900年 25才 『クレマン・マロの風刺詩』(1月)初演。初めてローマ大賞に応募(5月)。フォーレのクラスを去る(7月)。
1901年 26才 聴講生としてフォーレのクラスに戻る(1月)。ローマ大賞第3位獲得(6月)。『水の戯れ
1902年 27才 ローマ大賞落選(3回目)。ディーリアス『マルゴ・ラ・ルージュ』のヴォーカル譜を手がける。『弦楽四重奏曲』に着手。
1903年 28才 ローマ大賞落選(4回目)。『ソナチヌ』に着手。『弦楽四重奏曲』,『シェヘラザード
1904年 29才 『弦楽四重奏曲』(3月),『シェヘラザード』(4月)初演。『5つのギリシャ民謡』に着手。ゴデブスキー家の人々と会う。
1905年 30才 ローマ大賞の予備審査で失格。ラヴェル事件(3月)。作品の優先権をデュラン社と契約。『ソナチヌ』,『序奏とアレグロ』,『
1906年 31才 』(1月),『ソナチヌ』,『おもちゃのクリスマス』(3月)初演。『沈める鐘』に着手(未完)。『博物誌』。
1907年 32才 『博物誌』(1月),『序奏とアレグロ』(2月)初演。『スペインの時』のヴォーカル譜完成。『スペイン狂詩曲』に着手。ヴォーン=ウィリアムス(35才)を教える。『ヴォーカリーズ・エチュード』,『風は海の彼方から』,『草の上』
1908年 33才 スペイン狂詩曲』(3月)初演。『マ・メール・ロワ』に着手。父が世を去る(10月)。『スペイン狂詩曲』,『夜のガスパール
1909年 34才 夜のガスパール』(1月)初演。ロンドンで初の外国演奏会を開催(4月)。『ハイドンの名によるメヌエット』,『トリパトス』,『スペインの時』を管弦楽配置。『ダフニスとクロエ』に着手。
1910年 35才 マ・メール・ロワ』の完成,初演(4月)。『民謡集』(12月)初演。『亡き王女へのパヴァーヌ』の管弦楽配置。『ダフニスとクロエ』ピアノ譜完成。
1911年 36才 イングランド,スコットランドで演奏会。『高雅にして感傷的なワルツ』の匿名演奏会(5月)。『スペインの時』(5月)初演。
1912年 37才 マ・メール・ロワ』(1月),『高雅にして感傷的なワルツ』を『アデライド,または花言葉』(3月)に管弦楽配置。『ダフニスとクロエ』(6月)初演。過労のため,パリを離れ休養。
1913年 38才 3月から,ディアギレフの委託を受けたストラヴィンスキーの依頼で,共同でムソルグスキーの『ホヴァンシチーナ』を編曲。『ステファヌ・マラルメの3つの詩』,『・・・風に』。
1914年 39才 ステファヌ・マラルメの3つの詩』(1月)初演。ニジンスキーの依頼で,シューマン『謝肉祭』,ショパン『シルフィード』を管弦楽配置。『ダフニスとクロエ』(6月)のロンドン公演。『2つのヘブライの歌』,『クープランの墓』に着手。第1次大戦勃発。『ピアノ三重奏曲』。
1915年 40才 『ピアノ三重奏曲』(1月)初演。3月にトラック運転手として従軍。『3つの歌』を完成(2月)。
1916年 41才 赤痢の手術を受ける(9月)。回復後パリへ戻る。
1917年 42才 母が世を去る(1月)。『クープランの墓』完成
1918年 43才 道化師の朝の歌』を管弦楽配置。ドビュッシー没(3月25日)。
1919年 44才 メジューヴで静養(1〜2月)。『クープランの墓』初演(4月)。『ラ・ヴァルス』ピアノ譜を完成。
1920年 45才 レジオン・ドヌール賞の受賞を拒否(1月)。『2つのヘブライの歌』管弦楽配置版が初演される(4月)。『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』,『子どもと魔法』に着手。『クープランの墓』バレエ版の初演(11月)。『ラ・ヴァルス』初演(12月)。
1921年 46才 ベルヴェデーレに転居(5月)。
1922年 47才 『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』が2月に完成,初演(4月)。ドビュッシー『サラバンド』と『タランテラ舞曲』を管弦楽配置。イギリス,オランダ,イタリアを楽遊。
1923年 48才 『ヴァイオリン・ソナタ』に着手。イタリア,ベルギー,オランダへ楽遊。『ロンサールここに眠る』,『ヘブライ民謡』の管弦楽配置に着手。
1924年 49才 『ツィガーヌ』初演(4月)。スペインへ楽遊(5月)。『ツィガーヌ』管弦楽配置(7月)。モンテカルロ歌劇場の依託で『子どもと魔法』に再度着手。
1925年 50才 『子どもと魔法』がモンテカルロ歌劇場にて初演(3月21日)。『マダガスカル島民の歌』に着手。
1926年 51才 ベルギー,イングランド,スカンジナビア半島,スコットランドへ楽遊(1〜2月)。『子どもと魔法』がオペラ・コミークでパリ初演(2月1日)。『マダガスカル島民の歌』完成(4月),初演(6月)。スイスに楽遊(11月)。
1927年 52才 『ヴァイオリン・ソナタ』初演(5月)。『ジャンヌの扇』に『ファンファーレ』を提供。アメリカ・カナダの楽遊に出発。
1928年 53才 ニューヨークへ到着(1月4日)。フランスへ戻り,ル・アーヴルに帰港(4月27日)。『ボレロ』の作曲(7〜10月)。初演はパリ・オペラ座(11月)。
1929年 54才 イギリス,スイス,オーストリアへ楽遊。『ピアノ協奏曲ト長調』,次いで『左手のためのピアノ協奏曲』に着手。『古風なメヌエット』の管弦楽配置に着手。
1930年 55才 シブールに『モーリス・ラヴェル岸壁』が完成し,命名式(8月)。『左手のためのピアノ協奏曲』完成。
1931年 56才 ピアノ協奏曲ト長調』が完成。11月に医者から静養を命ぜられる。
1932年 57才 『左手のためのピアノ協奏曲』ウィーン初演(1月),『ピアノ協奏曲ト長調』パリ初演(1月)。『ドゥルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』に着手。10月にタクシー事故に遭う。スイスへ楽遊(12月)。
1933年 58才 『ドゥルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』完成。不治の病の兆候がはじめて現れる。
1934年 59才 スイスの病院に入院。『ドゥルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の管弦楽配置(12月)。アメリカ音楽院フォンテヌブロー校の校長を引き受ける。
1935年 60才 レオン・レーリッツとともにスペイン,北アフリカへ楽遊に出発(2月)。8月に再度スペインを訪問。
1936年 61才 健康が,次第に衰える。
1937年 62才 痛みが加わり,病状深刻化。脳の手術に踏み切る(12月19日)。ピック病(アラジュアニーヌ教授。ただし後年に「ウェニッケ失語症」へ修正)または腎不全(ヴァレリー=ラド博士)のため死去(12月28日)。
今日もどこかでラヴェルのことを知り,情報を探しては「足りない」「少ない」と嘆く
全ての方のため,自らの備忘録も兼ねて,非営利に制作しているページです。
私も先人の知恵を沢山借りました。個人で愉しむ,所有する,学ぶことを
目的にされる限り,これを妨げません。どうぞ自由に使ってください。
(多忙と無名作家救済のため,なかなか筆が進まずごめんなさい)
ただし,剽窃や出版等営利目的での利用は,これを
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