「この曲は,クープラン個人というよりも
十八世紀のフランス音楽全体に捧げられた讃歌である」
『自伝的素描』の一節
曲目 :
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前奏曲 prélude - vif (ジャック・シャルロ中尉を偲んで) |
A |
フーガ fugue - allegro moderato (ジャン・クリュッピ少尉を偲んで) |
B |
フォルラーヌ forlane - allegro (ガブリエル・デュリュック中尉を偲んで) |
C |
リゴードン rigaudon - assez vif (ピエールとパスカル・ゴーダン兄弟を偲んで) |
D |
メヌエット menuet - allegro moderato (ジャン・ドレフュスを偲んで) |
E |
トッカータ toccata - vif (ジョセフ・ドゥ・マルリアーヴ大尉を偲んで) |
(全6曲)
概説 :
1914年に着手され,1917年に完成。クラヴサン音楽の大家として高名なクープラン(François Couperin-le-Grand: 1668-1733:右肖像)の名前を冠し,17世紀から18世紀の舞踊曲の音楽形式を踏襲した擬古典的な形式で作曲された。
この作品が作曲された時期は,ラヴェルが第一次大戦に従軍したその時期を間に挟んでいる。愛国心に燃えたラヴェルは1916年3月14日にトラック運転手として従軍,赤痢に罹患し(9月),戦地を離れる1917年6月まで,ヴェルダン戦線の補給部隊に配属され,多くの友人の死を間近に見ることになった。またこの時期は,最愛の母を失い失意の底にあった時機とも重なっている。無神論者であり,死は全ての終わりだと考えていたラヴェルにとって,友人や肉親の死を通じて,最も死が身近に感じられた時期であったといえよう。
全体は6曲からなるが,各曲にはそれぞれ,戦争で散華した彼の友人たちの名前が刻されている。これは,音楽家を追悼する際に,1曲を献じるという18世紀の習慣に倣ったものであり,18世紀古典音楽への讃歌の形を借りた,ラヴェルらしい婉曲的な表現による鎮魂歌と見なすことも可能である。なお,出版にあたってはラヴェル自身が筆をとり,表装を描いた(右図)。
この作品は1918年に出版後,フーガとトッカータを除く4曲が管弦楽配置され,ルネ=バトンの指揮で1920年2月に初演された*。その後,前奏曲をさらに除いた3曲が,1920年11月8日にスウェーデン・バレエ団によりバレエ音楽として初演されている。この初演は167回連続となるほど大きな成功を収め,1923年にシャンゼリゼ劇場で行われた100回記念公演では,作曲者自身も指揮を担当している(Seroff 1953)。
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ラヴェルの描いた表装 |
クープランの肖像 |
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注 記
* 【調査報告】:ラヴェルがなぜ管弦楽版を4曲,バレエ版を3曲しか編曲していないのかについて,ズッキーニ氏よりお尋ねいただき,調査しました(2005. 1. 24)。諸説紛々ですが,当館としての解答は今のところ以下の通りです。
Larner(1996)には「リヨン=ラ=フォレ(Lyon-la-forêt)に6月に到着した頃,すでにフォルラーヌは完成し,恐らくリゴードンとメヌエットも仕上げの段階に入っていたようだ。出版社へ経過を知らせることになっていた2週間後までには,彼はこの3曲を片づけ仰せることができていた(disposed)。続いて,彼は残る舞踏形式ではない三品に取りかかったと思われる(he
would then have turned to the non-dance movements)。・・この三品について驚くべきは,哀しみを露わにするところも,その反対に悦びを示すところもまるでないことである。」という記述があります(抄訳)。以下,この三品がいわゆる擬古典的な書法を踏襲しているとの解説が続きます(pp.162-163) |
以上のことから,実際の作曲経過も,形式の上でも,この舞踏よりの三品とそうでない三品が分けて書かれているということになります。書いた場所も違います(前の三品はサン・ジャン・ド・リューズ)。少なくともラヴェル自身が,場所もタイミングも別に分けて書いていることから,舞踏形式かどうかを作曲者が当初から意識していた可能性が最も高いと思われます。Seroff(1953)によると,最終的にこの曲はバレエ版になり,所与の目的を達成,公演が大成功したとあるため,あるいは当初からバレエ版を作る意図があった可能性も残ります。現在,Larnerの記述を裏付けるような文言が書簡集にあるかを調査中です(2005. 2. 25 USW)。
【追加報告:2005. 2. 25 USW】
ロラン=マニュエル宛書簡(1914年10月1日)で彼が近況を報告しているのですが,その中にこんな言葉がありました:
「(最近書いている物として・・)『フランス組曲』−いや,これは君が考えてるようないわゆるフランス組曲とは違うよ。『ラ・マルセイエーズ』は入ってないし。代わりに『フォルラーヌ』と『ジーグ』が入るはず。タンゴなんて入らないよ,もちろん」。・・この作品は結局実現しなかったんですが,面白いのは:
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この「フォルラーヌ」が,クープランの墓の「フォルラーヌ」に落ち着いたこと, |
A |
「ジーグ」はというと,これが「ラ・ヴァルス」に転用されていること, |
B |
「タンゴなんて入ってないよ」というのは作曲者一流の皮肉であること。実はこの当時,パリで新しい民謡舞踏が流行りだし,これを見たパリの大司教が「なんと破廉恥な」と怒ったのを,ラヴェルは皮肉っている。 |
ということです。この書簡はラヴェルが応召する前の話。いっぽう『クープランの墓』が実際に書き上がるのは応召した後の1917年6月(から11月)。つまり,間に戦争を挟み,母の死を挟んだことで,最初に考えていた『フランス組曲』の気分はすっかり変わってしまい,最初はそんなつもりで書かなかった「フォルラーヌ」についても,いつの間にかドリュック中尉を偲ぶ曲に変わってしまった・・,と考えられます。
※ここから先は今のところ推測の域を出ませんが,Larnerの記述(まだ書簡集からは信憑性を未確認)が正しいとすると,最初ラヴェルは『フランス組曲』の乗りで,風刺画的な舞曲を構想していたのではないでしょうか。ただし,この場合は「バレエにするかも」とは思っていても,スウェーデン・バレエに演奏して貰うとか,委託された可能性はまずなくなります。しかし,戦争を挟んで思いがけず死を沢山見てしまい,構想は大幅に見直された。「墓」の標題や「追悼」曲である割に,それらしい匂いがあの曲からまるでしないのも,これで説明が付きます(ラヴェルが最初からその気になったら,もっと「悲しい鳥」や「パヴァーヌ」みたいにもできたはず)。その後,バレエ話が持ち上がったとき,6曲のうち,戦争体験を経る前の三曲(四曲)を編曲した・・。この説であれば「なぜ作り直さなかったのか?」の理由も「除隊を余儀なくされるほど体調不良の彼には,新曲を6つも書くなど無理だった」(これは書簡で確認可能)ことで説明できます。この件に関しては調査続行中ですが,何かご存じの方がありましたら,ぜひ情報をお寄せください(2005. 2. 25 USW)。
Reference
ジャンケレヴィッチ, V.・福田達夫訳. 1970. 「ラヴェル」. 東京: 白水社 284p. {Jankelevitch, V. 1956. Ravel. Paris : Seuil. 188 p.}
シュトゥッケンシュミット, H.H.・岩淵達治訳. 1983. 「モリス・ラヴェル :
その生涯と作品」. 東京: 音楽之友社, 333+93p. {Stuckenschmidt, H.H. 1976. Maurice Ravel: Variationen uber Person und Werk. Frankfurt am Main : Suhrkamp, 380p.}
ジョルダン=モランジュ, H. ・ペルルミュテール, V.・前川幸子訳. 1970. 「ラヴェルのピアノ曲」.
東京: 音楽之友社, 102p. {Jourdan-Morhange, H. and Perlemuter, V. 1953.
Ravel d'après Ravel. Aix-en-Provence: Alinea}
ニコルス, R. 1987. 「ラヴェル」. 東京・泰流社, 278+24p. {Nicols, R. 1977. Ravel. London: Dent &Sons, 199p.}.
Larner, G. 1996. Maurice Ravel. London: Phaidon, 240p.
Petit, P. 1970. Ravel. Classiques Hachette, pp. 54-57.
Nichols, R. 1987. Ravel remembered. New York - London : Norton, 203p. Orenstein, A. 2003 (1990). A Ravel reader: correspondence, articles, interviews. New York: Dover Publications, 653p.
Orenstein, A. 1991 (1975). Ravel: man and musician. New York: Dover Publications, 293p.
Seroff, V.I. 1953. Maurice Ravel. NY: Henry Holt & Company, 305p. |
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