ドビュッシーを教えた人々 |
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オーギュスト・バジュ Auguste Bazille (1828-1891) |
1828年8月27日パリ生まれ。本名はオーギュスト=エルネスト・バジュ(Auguste-Ernest
Bazille)。幼少期から才能を発揮し,パリ音楽院へ進学。1841年に作曲法科で,1845年に和声法および伴奏科で,1846年にフーガ科で,1847年にはオルガン科で,それぞれ第一等を得た。1848年にはジュール・ドゥプラート(Jules
Duprato)に次いでローマ大賞第2位を獲得している。当時の彼は,オルガン奏者として最も評価が高く,当時カヴェイェ=コル(Cavaillé-Coll)らが中心となって各地で進めていた教会オルガンの大改修に伴い,1854年の聖ユスタシュ教会の教会オルガンの落成式,1861年11月21日のナンシー聖堂での落成式,聖シュルピス聖堂の落成式などで弾き初めの栄を担ったほか,ビゼーが世を去った1875年には,トリニティ教会での葬式の席でも演奏している。彼自身も,長年に渡り聖エリザベート教会の正オルガン奏者に就任。1887年にニデルメイエール校での弟子だったピエール・ラブロー(Pierre
Laboureau)に地位を譲るまで,その任を全うした。教育者としても活躍。パリ音楽院ピアノ伴奏科で長年に渡って教授を務め,ドビュッシーに一等を与えたほか,メル・ボニも教えている。1891年4月18日,パリ近郊ボワ=コロンベ(Bois-Colombes)にて死去。 |
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エルネスト・ギロー Ernest Guiraud (1837-1892) |
フランスの作曲家,教育者。1837年6月26日ルイジアナ州ニュー・オリンズ生まれ。父ジャン・ギロー(Jean-Baptiste-Louis Guiraud)は,1827年にベルリオーズを退けてローマ大賞を受賞した人物である。アメリカに生まれた彼は1852年に渡仏し,パリ音楽院でオペラ作家フロマンタル・アレヴィ(Fromental Halévy)に師事。その後,1859年にはカンタータ『バヤゼとフルート吹き』で,史上唯一父子2代続けての受賞となるローマ大賞を獲得した。1876年にはパリ音楽院作曲法科および和声法科の教授に就任し,さらに1880年には作曲法専科の教授となり後進の育成に尽力。自身の作風はマスネーやサン=サーンスら同時代人の流れに属し,後期ロマン派の枠内にとどまる保守的なものであったが,教育者としては進歩的な若手にも比較的寛大であり,ドビュッシーやエマニュエル,デュカなど,そうそうたる弟子を育成。教育者として勇名を馳せた。また編曲の手腕の確かさでも知られ,オッフェンバック『ホフマン物語』の管弦楽配置のほか,ジョルジュ・ビゼーと親交の中で行った『カルメン』改訂版の上程や,『アルルの女』から4曲を抜粋した「第二組曲」の編曲などでも知られる。1892年5月6日,パリにて死去。 |
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アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル Antoine-François Marmontel
(1816-1898) |
フランスのピアノ奏者,教育者,作曲家。1816年7月16日,クレモン=フェラン生まれ。パリ音楽院へ進んでP.
J. G. ツィメルマンにピアノを師事し,1832年に同科一等を獲得する(アルカンのピアノ協奏曲を弾いたと伝えられる)とともに,J.
F. ル・スールに作曲法を師事。さらに1835年にはアレヴィの対位法及びフーガ科で二等を獲得した。1837年にパリ音楽院でソルフェージュ科の講師となり,1846年には非常勤ながらピアノ科でも講師に就任。同年にツィメルマンが退職したのを受けて教授となり,1887年に自らが退職するまで同科で教鞭を執った。ピアノ教師としては非常に優れた才能を持っていたとされ,弟子にはドビュッシーのほかアルベニス,ダンディ,ディエメル,マクダウェル,ピエルネらが名を連ねている。作曲家としてはほとんど無名と思われるが,第200番にまで及ぶピアノ・ソナタを作曲しているほか,ヒューゲル社から「クラシック・ピアノを学ぶ(Ecole
classique du piano)」と題した教則本を出版。300にも及ぶ楽曲のピアノ編曲を行った。なお,彼は実息のアントニン=エミール=ルイ=コルバ(1867年に同科一等)も教え,彼は1901年から世を去るまで,ピアノ科で教鞭を執っている。1898年1月16日パリにて死去。 |
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アルベール・ラヴィニャック Albert Lavignac (1846-1916) |
フランスの音楽学者,教育者。1846年1月21日パリ生まれ。パリ音楽院でマルモンテルにピアノ,フランソワ・バザンに和声法および伴奏法,アンブロワーズ・トマに作曲法を師事。1857年にソルフェージュ,1861年にピアノ,1863年に和声法および伴奏,1864年に対位法とフーガの各科で一等を獲得し,1865年にオルガン科で二等を得た。1871年にソルフェージュ科の講師として母校の教鞭を執り,1875年に同科の教授。1891年には和声法の講義も受け持った。作曲家としても歌曲やピアノ曲を残しているが,最大の業績は音楽史家としてのもので,非西欧圏の音楽を含む巨大な音楽史および技法の変遷の集成を試みた大著【音楽辞典および音楽教育史集成(Encyclopédie
de la Musique et Dictionnaire du Conservatoire)】を立案,監修し,なくなるまでその改訂及び再編纂事業を行ったことが筆頭に挙げられる。この事業は彼の死後いったんとん挫したのち,リオネール・ド・ラ・ロランシエの手により再開されたものの,1933年に彼が世を去るとともに忘れられた。しかし,時代に先駆けて非西欧音楽の価値へ目を向けようとしたラヴィニャックの姿勢が,些かなりとも若きドビュッシーに影響を与えた可能性は否定できないであろう。1916年5月28日パリにて死去。 |
(脱稿:2005. 2. 16) |