クロード・ドビュッシーってどんな人?
ドビュッシー略年表 |
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西暦 | 年齢 | できごと |
1862年 | 0歳 | クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)。1862年8月22日,父マニュエル(Manuel),母ヴィクトリーヌ・マヌリ(Victorine -Joséphine -Sophie Manoury)の長男として,フランスのサン・ジェルマン=アン・レー(Saint-Germain-en-Laye)に生まれる。 |
1864年 | 2歳 | ドビュッシー家,クリシーへと引っ越し。 |
1867年 | 5歳 | ドビュッシー家,パリへと引っ越し。 |
1871年 | 9歳 | このころ,パリ・コミューンの戦火を避けて,カンヌの伯母ルスタン夫人のもとに疎開していた弟妹のもとを訪れ,イタリア人のチェルッティという人物から,初めてピアノの手ほどきを受けたと推測。次いで,父の知人でヴェルレーヌの義兄シヴリーの紹介で彼の母モテ・ド・フルールヴィル夫人から最初の音楽教育を受ける。 |
1872年 | 10歳 | 10月,パリ音楽院への入学が許可された。パリ音楽院へはこれ以降ローマ大賞を受賞するまでの12年間在籍。 |
1875年 | 13歳 | ピアノ・コンクールで一等賞を獲得。翌年,初めて演奏会で演奏する。モーリス・ラヴェル誕生。 |
1876年 | 14歳 | パリ音楽院,ラヴィニャック(Albert Lavignac)のソルフェージュ科で一等メダル獲得。 |
1877年 | 15歳 | パリ音楽院,マルモンテル(A.F. Marmontel)のピアノ上級クラスで2等賞を獲得。 |
1878年 | 16歳 | (このころまでに最初の作品を執筆。) |
1880年 | 18歳 | パリ音楽院の,バジュ(Auguste Bazille)のピアノ伴奏クラスで一等賞状(accesit:一等次席)を獲得。ギロー(Ernest Guiraud)の作曲法クラスへ入る。同年,チャイコフスキーのパトロンでもあったメック夫人のピアノ伴奏者となり,夫人の家族とともに夏季の外遊に付き添うことになった(この時にボロディンやチャイコフスキーの音楽と親しむことになる)。1882年までの3年間は,さらに声楽家モロー=サンティ夫人の伴奏者となってグノーの知遇を得,合唱団体のコンコルディア協会の伴奏者としてはヴァニエ夫人と親交を結び,一般教養や歌曲,文学についての影響を受ける。 |
1882年 | 20歳 | 初の出版作品,歌曲『星の輝く夜』を出版。パリ音楽院,ギローの作曲法クラスで,対位法とフーガにおいて第2賞状獲得。 |
1883年 | 21歳 | カンタータ『闘牛士』,ローマ第二大賞第一席を獲得。 |
1884年 | 22歳 | カンタータ『放蕩息子』,ローマ大賞を獲得。 |
1885年 | 23歳 | ローマ大賞の獲得により,ヴィラ・メディチで留学生活に入る。しかし,ローマでの生活は窮屈で,義務最低年限の2年を終えるとドビュッシーは早々に留学を切り上げることになる。 |
1887年 | 25歳 | パリへと戻る。留学作品として提出した交響組曲『春』が,アカデミーから拒否される。このころから,象徴派の詩人をはじめ若い芸術家と次第に交流を持つようになった。 |
1888年 | 26歳 | カンタータ『選ばれた乙女』完成。初めてバイロイトへ行く。 |
1889年 | 27歳 | 再びバイロイトへ。パリ万博でインドネシアのガムラン音楽を耳にし,ヨーロッパ音楽とは異なるその形式の自由さや打楽器的効果,旋法や和声の響きに強く感銘を受ける。このころから次第に反ワーグナーを志向。 |
1890年 | 28歳 | 『シャルル・ボードレールの5つの詩』を出版。このころマラルメと出会う。 |
1891年 | 29歳 | このころ,サティと出会う。 |
1892年 | 30歳 | デュポン(Gabrielle Dupont)と同棲。『牧神の午後への前奏曲』の作曲に着手。 |
1893年 | 31歳 | 両親のもとを離れ,ギュスターヴ・ドレ街に転居。『ペレアスとメリザンド』に着手。 |
1894年 | 32歳 | 『牧神の午後への前奏曲』完成。 |
1898年 | 36歳 | 『ビリティスの3つの詩』完成。デュポンと別れ,カルディネ街へ転居。 |
1899年 | 37歳 | 『夜想曲』完成。リリー・テクシエ(Lily Texier)と最初の結婚。 |
1900年 | 38歳 | 『夜想曲』第3楽章を除き初演。 |
1901年 | 39歳 | 『夜想曲』全曲初演。 |
1902年 | 40歳 | 『ペレアスとメリザンド』パリ・オペラ歌劇場で初演。 |
1903年 | 41歳 | 『版画』出版。レジオン・ドヌール5等勲章受章。 |
1904年 | 42歳 | 『喜びの島』完成。リリー・ドビュッシー自殺を図る。 |
1905年 | 43歳 | 『海』初演。『映像第一巻』完成。リリー・ドビュッシーと離婚。裕福な銀行家夫人エマ(Emma Bardac)と同棲し,愛娘クロード=エマ(Claude-Emma),愛称シュウシュウ(Chouchou=キャベツちゃん)誕生。 |
1907年 | 45歳 | 『映像第二巻』の作曲に着手。 |
1908年 | 46歳 | 初めての指揮に挑戦。『子供の領分』完成(娘に献呈)。 |
1909年 | 47歳 | パリ音楽院上級評議会(conseil supérieur du conservatoire)の委員に就任。 |
1910年 | 48歳 | 『前奏曲集第一巻』完成。父が死去する。 |
1911年 | 49歳 | 『聖セバスティアンの殉教』初演。ストラヴィンスキーと会う。 |
1913年 | 51歳 | 『遊戯』初演。『前奏曲集第二巻』完成。 |
1914年 | 52歳 | 最後の国外楽旅。 |
1915年 | 53歳 | 母死去。自らも癌と診断され,手術を受ける。様々な楽器編成のための『6つのソナタ』を構想,作曲開始。 |
1917年 | 55歳 | 3つ目のソナタである『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』が完成。 |
1918年 | 55歳 | 3月25日,直腸癌のため死去。3日後,ペール・ラシェーズに埋葬される(のちパッシー墓地へ移葬)。翌1919年に,クロード=エマも死去し,ドビュッシーの血筋は絶える。 |
今日もどこかでドビュッシーのことを知り,情報を探しては「足りない」「少ない」と嘆く 全ての方のため,自らの備忘録も兼ねて,非営利に制作しているページです。 私も先人の知恵を沢山借りました。個人で愉しむ,所有する,学ぶことを 目的にされる限り,これを妨げません。どうぞ自由に使ってください。 (多忙と無名作家救済のため,なかなか筆が進まずごめんなさい) ただし,剽窃や出版等営利目的での利用は,これを厳禁します。 場合によっては法的な手段を講じます。 Copyright ©Underground Disc Museum / 2000-2005 |
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