「全く何と難しい曲だろう!
ここには,ピアノに挑み掛かるための,あらゆる手の内が詰まっている・・」
'Que c'est difficile à jouer, lui confesse-t-il quelques semaines
plus
tard, ce morceau me parait réunir toutes les façons d'attaquerun
piano'
デュラン宛書簡(1904年8月11日)
概説 :
1903〜1904年,ドビュッシー42才の作。彼の作品としては最も技巧的で演奏の難しい作品のひとつであり,それらを駆使した絢爛・豪壮な書法で異彩を放つ。ルーブル美術館に収蔵されているジャン-アントワーヌ・ヴァトー(Jean-Antoine
Watteau:1684-1721)作の絵画【シテール島*への船出(Pèlerinage à l'île de Cythère, 1717年)】(図)に着想して書かれたとの説は有名**。
なお,この作品の作曲時期は,パリ音楽院の学生だったシモーヌ・バルダックを通じ,銀行家バルダック夫人の晩餐へ招待されたドビュッシーが彼女と親密になり,やがて最初の妻リリーと別居することになった(1904年7月)時期と重なっている。通説の中には,この曲が1904年の7月から8月に掛けて作曲されたため,バルダック夫人とイギリスのジャージー島へ婚前旅行へ出たことや,同棲生活へ踏み切ったことから,その壮麗な作風に私生活が深く関わっていると指摘するものがある。しかしヴィニエスの回顧録によると,これは正確ではない。実際には,1903年の6月13日には書き上げられ,作曲者自身により彼の家で演奏されており,その後の一年間は,事実上校訂作業のみに費やされたとみるのが妥当であろう。
当初ドビュッシーは『マスク』ともう一編を加えた3楽章形式で,その後『マスク』との2楽章形式で,1890年に作曲した『ベルガマスク組曲』の続編を構想していた。この間にドビュッシーは【図解パリ(Paris
Illusté)】のために一足早く『スケッチ帖より(D'un cahier d'esquisses)』を発表するが,冒頭のカデンツァ,中盤のバルカロール,終盤のカデンツァの再現という構成がこの曲をそのまま予見していることや,標題が試作品を示唆するところから,同作品をこの曲のスケッチとする見解もある(Howat,
1995)。初演は『マスク』とともに1905年2月10日,リカルド・ヴィニエスによって行われて大好評を博し***,1916年までに,パリで7000部を超える楽譜が売れたという。自筆譜はパリ国立図書館蔵(Ms. 977)。ベルナルディノ・モリナーリによる管弦楽版がある。 |
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注 記
* シテール島は,ギリシャ神話に出てくる島の名前。ヘシオドスによれば,海の泡から誕生した美と愛の神アフロディテは,西風の神ゼピュロスにより,東の果てへと運ばれ,現在のペロポネソス半島とクレタ島の間にあるキュテラ(仏語読みでシテール)島へと流された。中世に入り,この神話に「愛の巡礼」の意味が加えられ戯曲や絵画の題材として盛んに採り上げられるようになる。ヴァトーもまたその一人で,生涯に三度シテール島の巡礼を描いている。上の図はその2度目の作品で,1717年8月28日に芸術アカデミーへ出品されたものである。ちなみに「船出」というのは,アカデミーの役員が目録を作る際の誤りが定着したもので,元々の標題は「シテール島の巡礼」,次いで「雅な宴」と変更されている。
**ヴァトーの絵画に霊感を得たとの説は必ずしも定説ではなく,異論も数多い。例えばDietschy(1962)は,この曲の持つ世界観は,1902年にベナール(Paul-Albert
Besnard;右写真)がアカデミーへ出品した『幸福の島 (l'île heureuse)』(右図)のほうにむしろ近いとしている。
***ヴィニエスは2月10日の初演のさい,自らの演奏が不出来だったことに気が付き,翌週に再度,『喜びの島』を演奏している。一般に“初演は・・大好評だった”とされるのは,より正確にはこちらのことを指しており,例えば批評家のJ. トルシェは「ひとつの勝利である・・それは情欲にも似た,ある種の禁じられた悦楽だ」と述べている。 |
P-A. ベナール
(1849-1934) |
『幸福の島』(1900) |
Reference
国立音楽大学付属図書館. 2004. 喜びの島 シテール島 神話・美術・文学そして音楽.
(http://www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2004/tenji0410.pdf)
平島三郎. 1987. 「大音楽家−人と作品12 ドビュッシー」. 東京: 音楽之友社.
吉田敦彦. 1993. 「ギリシャ・ローマの神話−人間に似た神さまたち」. 東京:
筑摩書房.
Ashbrook, W. and Cobb, M.G. 1990. A portrait of Claude Debussy. Oxford: Clarendon Press. {Dietschy, M. 1962. La passion de Claude Debussy. Neuchâtel: Baconnière}
Howat, R. 1995. En route for L'isle joyeuse: the restoration of a triptych. Cahiers Debussy 19: 37-52. |
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